[プロジェクトX風に読んでください]
♪風の中のスーバルー
かつて働いていた会社に、1人のフィリピン人マネジャーがいた。
日本人は思った。
後にもさきにも、あんなすごいフィリピン人に出会うことは、もうないだろう。
彼女は、組織を立ち上げている2年目くらいのとき、応募で引っかかった。
当時の給料は12000ペソ。
メキメキと頭角を現し、すぐに日本人たちの目にとまった。
4年ほどで30人のCADスタッフをまとめるマネジャーにまでなった。
給料は5万ペソを超えた。
人並みはずれたスタッフの統率力を見せ、粘り強い図面チェックを5年間続けた。
彼女は30人のCADオペの成果物のほぼ100%をチェックしていた。
毎日、毎日、夜6時ごろになると、机の上が、各チームからあがってきた図面と資料がうずたかく積みあがる。
それを全部自分でチェックする。
それも手を抜かず、丹念に。
日本人は口をそろえて言った。
「もう、そんなのいいよ、適当で」
彼女は言った。
「いいえ、まだだめです。プロフェッショナルの図面になっていない」
自分がチェックをしていない図面は、絶対に日本人に渡さない。
それが彼女のポリシーだった。
日本人は、なかなか帰れなかった。
夜12時を回っても、終わる気配なし。2時になってようやく終わりが見える、というような日が続いた。
向かいのビルで働いていた、日本人は言った。
「あなたのフロアはいつも電気がついている。アメリカ時間で仕事をしているのかと思った。」
別の日本人は言った。
「なぜここのフィリピン人は、こんなに働くのか。」
最後の1本が直るまで、当然、チームのスタッフも全員、居残った。
もう、「帰りたい」とか、いえる雰囲気ではなかった。
日本人は何度も、「そんなの適当でいいよ」と言おうとしたが言えなかった。
土曜日も、日曜日も、とにかく仕事があれば彼女は必ず来た。
もちろんスタッフにも出社を呼びかけて。
マネジャーなので土日に出社しても、残業代はもちろん交通費もでない。
完全に自腹の交通費で出社していた。
すごかったのは、そういったクソマジメな仕事振りだけではなかった。
彼女の場合、下のスタッフへの接し方が、他のフィリピン人とは違っていた。
1人1人、自席に呼んで、理解の悪いスタッフにも丹念に説明をした。
相手の席に行って実演教育をした。
妥協を許さないものだから、スタッフからは恐れられていた。しかしその一方で、きちんと社員の意見や困っていることを吸い上げ、日本人に伝えた。
社員を評価する時期になると、彼女は各社員のいいところしか言わなかった。
できない社員もいるけれど、かならず、「こういうところがいいからもっと評価してやってくれ」と進言した。
もちろん、そのできない本人は、毎日厳しく指導されいているから、彼女のことをうっとおしいぐらいに思っていたはずだ。
陰で自分のことを持ち上げてくれていたなんて、今でも知らない。
通常の会社では、ある社員がそういうポジションに達すると、下の社員には、いろいろと不満が溜まるものだ。
高圧的な態度であったり、えこひいきについてであったり、いろんな問題がおきる。
それが普通だ。
日本人は全社員との面接のたび、何度もカマをかけた
「あのマネジャーはどうだ、厳しすぎるか」「もう、いやだろ」「嫌いだろう」
全員が同じ答えをした。
「厳しいけれど、ちゃんと教えてくれるので、いい上司です」
「しいて言えば、もう少し早く帰りたい」という意見が出るだけだった。
彼女が在籍した5年か6年のあいだ、ネガティブな意見はただの1度も出なかった。
日本人は思った。
あいつは突然変異だ。
(ちなみに彼女がいると、雰囲気がかなり重くなる(それくらい影響力が強い)ので、正直なところ、僕は同じ場所で仕事をしたいとは今は思わない(笑 仕事は楽になるけど。。)
3月末で退職し、念願のアメリカで新生活をはじめた。現在35歳。独身。
アメリカへ立つ前、僕の会社に挨拶に来た。
こう伝えておいた。
「就職したら、アメリカの仕事、こっちに送れや。1人で20人分の仕事とってこれるぞ。」
彼女は答えた。
「イエッサー」
やりすぎて全米の仕事を取ってきてしまうのではないかと、心配だ。
彼女は、ことあるごとに、こう言った。
「フィリピン人は、信頼され続ける限り、やります。一番大切なのは信頼です。」
すげえ。
ぱんちょ、感動。
PANCHO {3797} 2009 年 5 月 28 日 @ 4:23 PM